森のなかに突如現れた「森と、ピアノと、 」は、「とっておきのおひとりさま時間」を過ごすための施設。周囲の目を気にせず、何者にもならず、自分を解放して自由に過ごせる空間は、現代社会における心のシェルターのような場所です。今回の取材ではオープニングイベントにお邪魔し、関係者へのインタビューを通してユニークな施設が誕生した背景に迫りました。
SNSの浸透などを背景に誰とでも手軽に繋がることができる現代社会では、積極的な孤独として「ソリチュード(solitude)」のニーズが高まっています。これは、対人関係のコミュニケーションから生じる寂しさや苦痛を伴う「ロンリネス(loneliness)」とは違うもの。積極的に一人で過ごす時間を楽しみ充足感を求める行為は、本来人間に備わっているプリミティブな精神的欲求でもあります。家族や社会といった日常から距離を置き、自分自身の内面と向き合う静謐な時間は、騒がしい現代において重要なデトックスであり、貴重なヒーリングです。また、他者の評価を気にせずに音を奏でたり絵を描く時間は、内省と自己認識を促してくれます。2025年5月、八ヶ岳の森にそんな現代人のニーズを叶える施設ができました。
「森と、ピアノと、 」は森のなかで一人、静かに、勝手気ままに過ごす場所。そこは誰にも邪魔されることのない、一日一人限定の完全プライベートな空間です。茅葺き屋根のユニークな外観とは裏腹に、内部は断熱性や気密性が保たれていて快適。室内にあるのは、一台のピアノとイーゼルだけというミニマルな構成が印象的です。窓を開けると風が抜け、木々のすれる音や鳥の声が聞こえてきます。
入り口側にある土間のような空間は絵の具を使った表現や、自由な創作を楽しむ「色の間」。室内でも屋外でもイーゼルを持って、自由に色と遊びます。そして奥のピアノのある空間が「音の間」。音が柔らかく響く空間ではおすすめの楽譜を弾いたり、ピアノ以外の楽器を持ち込んで気ままに音と戯れることができます。寝っ転がって本を読んでも、昼寝をしても、日記をつけても、ともかく「いま、自分が何をしたいか」という声にじっくりと向き合うことができる空間です。大きな窓と小さな天窓がゆっくりと動く光を捉え、時の移ろいを感じさせます。
「森と、ピアノと、 」を運営する株式会社とわいろの代表を務める廣瀬 明香(ひろせ はるか)さんにお話をうかがいました。
「私の家は父が医師で母が看護師という医療一家でした。私も薬剤師の資格を取り、赤十字の理念に共感して医療に従事していました。仕事も人間関係もそれなりに充実した日々を送っていましたが、コロナ禍での経験をきっかけに、東京で暮らす自分の空間に息苦しさを感じたのです。自宅のベランダから毎日同じ景色を眺めているとき、ふと『森のなかでピアノが弾きたい!』と強烈に思ったのが、このプロジェクトのはじまりでした。それは、しばらく無視し続けていた私の心の叫びだったように思います。私たちは社会のなかで、そこまで自由気ままに過ごすわけにはいきません。誰かの期待に応えたい。与えられた役割を演じたい。そんな社会性を帯びた欲求もある一方で、たまには自分で自分を独り占めしてあげても良いのではないか。そう思うようになったのです。『森と、ピアノと、 』という名前になっていますが、ここでは何もせずにボーッとして過ごすだけでも構いません。色や音を絵や音楽として捉えなくても良いのです。最初は何をして過ごせば良いか戸惑うかもしれませんが、まずは一人になること。その欲求を守る場所になれたらうれしいです。名称の『、』の後に空白を空けているのは、そこに大切なものを置いてほしいという想いを込めたものなのです」
5年の歳月をかけたプロジェクトでは、多くの人から助けを得たといいます。建築家の大野宏(おおの ひろし)さんは、この場所を「言葉ではなく感覚から生まれた空間」だと語ります。
「廣瀬さんからお話をうかがった際に、テーマは『没頭と解放』と言われました。点で見ると真逆の要素のようですが、その点を結ぶと波形のようなイメージが浮かんできます。そのイメージを思い描きつつ、彼女がイメージする『ここで過ごしたい一日』を具体的な物語にしてもらったのです。『さかさま不動産』というサービスを通してこの場所が見つかり、まずは手入れされていなかった森を『大地の再生』の松下 泰子(まつした やすこ)さんと一緒にみんなで整備することから始めました。自然との一体感とネイチャーに寄りすぎないモダンさの同居が課題でしたが、適度なバランスに収まったと思っています」
縄文時代の住居を思わせる構造は、現代アートのような存在感も放っています。難易度の高い現場を取り仕切った君島 健太(きみじま けんた)さんにお話をうかがいました。
「大野とは大学の同期で、このプロジェクトに誘われたことをきっかけにそれまで住んでいた奈良県と長野県の二拠点生活が始まりました。私の仕事は現場ありきなので、施工を実施できる職人さんや業者さんとの調整も本当にハードでした。でも、みんながとてもポジティブなムードで取り組んでくれたので、気持ち良く仕事ができました。結果的に大きなトラブルもなく工事が進んだことは、本当に奇跡の連続だったと思います。廣瀬さんの純粋な想いにみんなが共感し、『なんとか無事に形にしよう』というエネルギーが満ちた幸福度の高い現場でした。プロジェクトのスタートと同時にこどもも生まれ、ともに成長を見守りたい現場になりました」
「音の間」に置かれるピアノも、不思議な縁でこの地に収まりました。音楽家の根本 崇史(ねもと たかし)さんは、「ショパンやラフマニノフよりも、一音を楽しむのに相応しい空間」と、鍵盤を叩きます。
「ピアノはもともと室内での演奏を想定している楽器なので、『森のなかで弾くためのピアノを探している』と聞いて、どんなピアノが相応しいのか試行錯誤しました。このピアノは1965年製の“オールドヤマハ”と呼ばれるピアノです。サイズ感も可愛らしく、まだ大量生産に向かう前の希少な一台です。どんなピアノが合うか探していたとき、自宅にあったこの一台がピンときてお譲りすることにしました。木材も自然乾燥で音がよく響きますし、職人の手仕事によって膠(にかわ)や鹿の皮などの自然素材が用いられてつくられたものなので、この空間とよく響き合います。風を感じ、鳥のさえずりを聞きながらピアノを弾く体験というのは、室内で過ごすことが多いピアニストにとって非日常です。私にとって、『森と、ピアノと、 』は深い哲学的なひらめきを与えてくれる場所なのです」
そして、地面まで届きそうな茅葺きを担当したのが株式会社縄文屋根。代表取締役を務める渡辺 拓也(わたなべ たくや)さんは「新築の茅葺きというのは珍しい」と、現場を振り返ります。
「湿気が多く、日照条件が悪いとすぐに苔が生えてしまうので、森のなかの建築に茅葺きを使うのはあまりおすすめしなかったのです。ただ、苔むす茅葺きにはなんとも神秘的な美しさが宿る。その魅力を知る場所として戸隠神社の随神門をお伝えすると、廣瀬さんは現地に見に行ってくださいました。1710年の建立で、戸隠神社の中で最も古い建造物といわれている建物です。風合いが変化することを劣化と捉えず、風土とともに変化していく茅葺きの特徴として前向きに捉えていただけたのがうれしかったですね。ススキは近所に生えていたものを分けてもらったり、ワークショップとしてみんなで一緒に葺いたり、縁が繋がり、人がどんどん集まってくるのが印象的でした。手が届く茅葺き屋根というのも珍しいので、ぜひ見に来て触っていただきたいですね」
そして、土台となる石積みを築いたのが造園家の堀江 聡(ほりえ さとし)さん。5トン以上もある茅葺き屋根と構造を基礎と石積みで支えています。
「ここに積まれている石は、遠くから運んできたものではなく近所の方から譲っていただいたものです。地中に埋まっていたり、土地の端に集められていたりしたものをひとつずつ洗い、平らなものや丸みのある形を選んで積んでいきました。基礎にコンクリートを使わないことで土や草の種など自然の有機物が入り込み、雨が降ると養分となって定着していきます。自然の素材が目地になることで強度がどんどん高くなっていく、棚田などでも用いられてきた昔ながらの手法です。大地に与えるインパクトが少ないだけでなく、大地と建物を支える礎としてゆっくり成長していく姿も楽しむことができます。今後もまだ残っている石を使ってみんなでファイヤーピットを組み上げたり、作業に没頭できる体験を届けていきたいと思います」
オープニングイベントでは地元の新聞社やメディアも含めて大勢の参加者が集いました。そこでは、「誰かの役に立つための人生から、自分の真ん中に向き合う人生を選びたい」と話す廣瀬さんの言葉に涙を浮かべる姿もあり、「とっておきのおひとりさま時間」が求められている現実を実感しました。私たちの人生は、取捨選択という作為の積み重ねでできています。けれどその選択は、無作為な社会や周囲からの影響を受けているはずです。果たして「本当の自分」とはなんなのか。哲学的な問いにおいてこの場所に本質的な自由を与えていると感じたルールのひとつに、「作った作品を外部への発信したり、展示することはNG」というものがあります。あくまで、自分のために思い出として持ち帰ることはできるものの、何をするか、それをどう感じるかはすべて「わたし」のなかで完結するのです。誰にも知られることのない、一切外部に影響を与えないクリエイティブな行為。それはアートセラピーの原則でもあります。薬では治すことのできない「気持ちの不調」に気付いたら、「森と、ピアノと、 」を訪れてみてはいかがでしょうか。自分でも気付かなかった自分に出会えるかもしれません。
住所:長野県・富士見町
施設の住所詳細は非公開、ご予約後にJR中央本線「青柳駅」に送迎あり
セゾン・アメリカン・エキスプレス®・カードが
ご利用いただけます。
https://morito-pianoto.com