「リジェネラティブ・トラベル」という新しい旅の考え方。富山県の砺波(となみ)市にある「楽土庵」は、訪れるゲストと地域の「回復と再生」をめざす宿です。三方を水田に囲まれた美しいロケーションは、日本の伝統をみずみずしく残した民藝の郷。「アズマダチ」と呼ばれる伝統的な古民家を改装し、アートや工芸、食などの体験プログラムを通じて、地域保全をサポートする仕組みを運用しています。新しい旅の選択肢を提案する意欲的な取り組みをご紹介します。
富山県の西部にある砺波(となみ)市は、田園地帯に農家が点在する「散居村(さんきょそん)」の風景を今に残しています。全国的に散見する農村形態ですが、220k㎡の散居村は日本最大級の規模。その歩みは平坦な道のりではなかったようです。砺波平野は小矢部川と庄川という一級河川に挟まれた扇状地で、肥沃ですが水はけがよく、本来は稲作には向かない土地です。しかし、富山は高い山々からの豊富な雪解け水のお陰で田に十分な水を引くことができました。水はけが良い土地で水田の管理がしやすいように、自分が開墾した田んぼの真ん中に家を建てたことで、この独特の景観が生まれたと伝えられています。「散居村は誰かが決めた都市計画ではなく、この土地の自然が持つグランドルールに寄り添って人と自然がともに作りあげた風景であり、優れたエコシステムだと思います」と話すのは、一般社団法人 富山県西部観光社「水と匠」のプロデューサー、林口 砂里(はやしぐち さり)さん。稲穂が風に揺れる美しい景色に心が洗われると同時に、人々の逞しさとしなやかさに胸が打たれます。
この風土から生まれた宿が「楽土庵」です。この名前は南砺(なんと)市にある大福寺の住職で、日本民藝協会常任理事でもある太田 浩史(おおた ひろし)さんによって名付けられたもので、「王道楽土」を意味します。浄土真宗の信仰が篤く、「おかげさま」の精神が根付くこの地方には「土徳(どとく)」という独自の精神風土を現した言葉があり、この宿のコンセプトにもなっています。その言葉の意味するところについて、自身も富山県の出身である林口さんにうかがいました。
「富山県は民藝運動の創始者、柳 宗悦が集大成ともいえる『美の法門』を書き上げた地です。また、彼を師と仰いだ板画家・棟方 志功の作品に大きな変化を与えた場所でもあります。その根底には『土徳』という精神風土があります。言葉で表現するのが難しいのですが、「散居村」に象徴されるよう _な、富山の自然と人が作りあう”この土地の品格”のようなものだと考えています。その気風が名もなき陶工の器にも美を見出す民藝の精神と深く響き合い、彼らによってこの土地の精神性を表現する言葉として広まりました。その「土徳」を空間やしつらえ、お料理などから体感いただける楽土庵で、心から安らげるひとときを過ごしていただきたいと思います」
建物は南西から吹く季節風を防ぐために南西に屋敷林が植えられ、玄関が東向きになることから「アズマダチ」と呼ばれる伝統的な屋敷を改装したものです。カイニョと呼ばれる屋敷林が周囲を囲む独特のスタイルは、この風土が生んだ建築様式。立派な黒瓦葺きの切妻屋根と、格子状に組まれた梁や白漆喰の妻入りが実に堂々とした印象を与えます。敷地の南西部にはスギやヒノキなど高く育つ樹を植え、家を風や雪から守ってきました。その手前にはウメやツバキなどの花木、柿や栗などの食用樹を植え、さらに下草にドクダミやオオバコなどの薬草を植えることで小さな生態系を作り出してきたのです。この地方では「家は三代にわたって作るといわれ、カイニョは建材にも燃料にも食料にもなる自給自足の循環システムなのです」と、林口さんは説明します。ゲストを出迎えるロビースペースはもともと来客スペースでもあった「広間」で、お坊さんを呼んで法和や法要をする信仰空間でした。そうした信仰コミュニティの中で人々が支え合うことで、家は離れていても心の近い暮らしぶりだったことがうかがえます。
客室は3部屋のみで、いずれもゆったりとしたバルコニーを備えているのが特徴です。それぞれの部屋には主役となる素材があり、「紙(shi)」と「絹(ken)」と「土(do)」と名付けられています。洋の東西と時代を超越した調度品が飾られ、イサム・ノグチの照明やバルーチ族のラグが共通のアイコンとなって独特の調和を成しています。いずれの作品も実際に購入できるというのも、民藝の精神を反映しています。
「紙(shi)」は、壁と天井のすべてに和紙作家・ハタノワタルによる手漉きの和紙が張られ、柔らかく反射された外光が室内を明るく照らします。ポール・ケアホルムによるラウンジチェアの名作「PK22TM」のミニマルなデザインと民藝作品のぬくもりが絶妙にマッチした客室です。
真っ白な空間が眼に鮮やかな「絹(ken)」。同じ白でも「紙(shi)」とはひと味違うテクスチャを感じさせてくれます。天井と壁を覆うのは2頭の蚕から生み出される糸で織られた「しけ絹」という珍しい素材で、艶やかで清潔感のある印象を受けます。棟方 志功の掛け軸にオーレ・ヴァンシャーのコロニアルチェアを合わせるセンスには脱帽です。
「土(do)」は唯一西に向いた客室で、窓から眺める夕陽に心が安らぎます。土壁の質感が素朴な印象を与えます。敷地内の土を採取して銀箔をあしらったアートウォールは林 友子によるもの。ハンス J.ウェグナーのソファと河井 寛次郎の壺など「いずれの空間も他力美をコンセプトに、個性を持ちながらも主張がぶつからない作品をセレクトしています」と、林口さん。民藝の銘品から唐や李朝の骨董に現代アート、そして北欧の家具まで、モダン・フォークロアに統一された世界感は見事です。
*館内の設えは季節ごとに入れ替わります。
隣接するレストラン「il clima(イル クリマ)」では、シェフの伊藤 雄大(いとう ゆうだい)さんが腕を振るいます。「大阪あべの辻調理師専門学校」を卒業後、そのまま欧風料理の講師として着任し、イタリアやフランスのレストランでも修行を積みました。地元の旬の食材をふんだんに使った料理は、ヨーロピアン・キュイジーヌでありながらリラックスした雰囲気が魅力です。素朴で優しい味のなかに丁寧な技が光り、毎日食べても負担を感じない軽やかさはローカル・ガストロノミーの真骨頂。作家による美しい器と滋味溢れる料理の相性は抜群です。
「イタリアやフランスではいわゆる日本の“地方”を意味するような言葉がなく、クリマとはイタリア語で“風土”を意味する言葉です。どんな田舎でもその土地の文化に誇りを持っていて、それが家庭料理などにも色濃く反映されています。富山は料理人にとってとても魅力的な土地です。豊かな食材と伝統的な郷土料理が確立されていて、特に野菜がおいしいのが印象的です。関西とは水質も違い、出汁を引くととても繊細な風味が生まれることに驚きました。農家さんや近所のお母さんに地元の食べ方を教えてもらいながら、この場所でしか成立しない郷土料理をお届けしたいです」
さらに、この土地の滞在を印象づけるのが体験プログラムの数々。今回は「越中いさみ太鼓」を体験させていただきました。会場は宿からすぐの鎮守桑野神社で、夜にもかかわらず迫力のある太鼓の音をリズミカルに響かせます。「太鼓は喜びを表現したり、情報を伝達したり、さまざまな役割を担ってきました」と、越中いさみ太鼓保存会の会長、河合 朋宣(かわい とものぶ)さんが起源について話してくれました。
「桑野神社はこの村ができたときに建てられたもので、約900年の歴史を誇ります。開墾を脅かす大きな白蛇を祀る祠を建てたことが起源と言われており、今もご神体として祀られています。越中いさみ太鼓はこの野村島の開墾の歴史とともに歩み、現在でも祭礼で奉納したり、村祭りの余興として親しまれています。県下有数の太鼓集団として大会に出場しながら、近隣市町村から集まるこどもたちにも伝統を受け継いでいます。思いっきり太鼓を打ち鳴らすと邪気払いにもなり、とにかく気持ちがいいので、ぜひ楽土庵に泊まったら太鼓を打ちに来てください」
こうした一連の運営を担うのが、一般社団法人 富山県西部観光社「水と匠」。プロジェクトの経緯について、改めてプロデューサーの林口さんにお話をうかがいました。
「進学をきっかけに東京へ出て、その後イギリスに留学したことでアートや音楽、建築に出合いました。その後は東京でクリエイターやアーティストと仕事をしていたのですが、 “いつか生まれ育った里山で父と畑をやろう”と思っていたのを東日本大震災をきっかけに行動に移しました。それからしばらくは出身地の高岡市と海外と東京の多拠点生活をしていたのですが、何もないと思って飛び出した田舎に大事なものがたくさんあることに気付かされました。里山の美しい風景に心が癒やされ、同時に失われつつある現実を知って拠点を富山に移したのです。2019年に観光を通じて地域づくりを担う当法人が設立され、プロデューサーに就任したことをきっかけに、テーラーメイドの体験プログラムや地場の伝統産業をECサイトなどで販売する商社的な機能を提供しています。楽土庵は開発事業のひとつで、この土地の最大の魅力ともいえる“土徳”を体感できる宿泊施設としてスタートしました。宿泊費の2%を散居村保全活動を行う民間団体への寄付に充てたり、散居村保存コミュニティを設立して地元とそれ以外の人々を繋ぐ役割を目指します。私に効いた薬は、誰かにも効いてくれるのではないか。私を癒やしてくれた大切なものを残し、伝えたい。そんな想いでお客様と地域両方の回復と再生を目指す旅のスタイルを提案しています」
楽土庵での滞在は、誰も気付かなかった身近な美を見つめ直した民藝の「名もなき美」に通じるものがありました。厳しくも豊かな自然と寄り添い、人々が長い時間をかけて作ってきた散居村の風景は、まさに美と生活の調和そのもの。この地域の人にとって“当たり前”の景色が、我々にとっては“有り難い”ものに感じる。それがまた、この地域の人たちの自信や誇りに繋がるとしたら、それは旅をすることで得られる本質的な価値の循環といえるのかもしれません。便利な暮らしは、時としてその豊かさへの感謝を忘れてしまうことがありますが、広い空の下でどこまでも続く田園風景を眺めていると、生かされていることの不思議さや感謝の念が自然と湧いてきます。旅をすることで自らが癒やされ、地域の再生や回復に繋がるリジェネラティブ・トラベル。今後はこの活動を発信するPodcast番組なども始まるとのことなので、新しい時代の旅行スタイルに興味のある方はぜひ視聴してみてはいかがでしょうか。
〒939-1334 富山県砺波市野村島645
Tel. 0763-77-3315
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