イタリア中北部のトスカーナ地方。フィレンツェから南東へ2時間ほど車を走らせると、ローマへの巡礼道が通るオルチャ渓谷が広がります。広大な丘に石造りの邸宅が建ち、その周囲にはトスカーナを象徴する糸杉が真っ直ぐと伸びています。世界遺産に登録された美しい景観は、大自然と人々の営みが作り出したもの。それはまるで美しい絵本のような風景でした。いくつかの旧市街やオリーブ農園、小さなワイナリーなどを訪れ、美しきイタリアのエッセンスをお届けします。
ぽつぽつと連なる糸杉の丘や、パッチワークのように連なる田園風景がルネサンス時代の芸術家たちをも魅了したオルチャ渓谷(ヴァル・ドルチャ)。トスカーナ州のシエナ県に属し、ローマへの巡礼路であるフランチジェナ街道の要衝として2004年に世界文化遺産に登録されました。ピエンツァ、モンタルチーノ、カスティリオーネ・ドルチャ、サン・クイリコ・ドルチャ、ラディコファーニの5つの街で構成され、それらを中心に中世のヨーロッパの雰囲気を残した石造りの街が点在しています。遠くにモンテ・アミアータ(アミアータ山)を望み、どこまでも続く麦畑に遮るものはなく、木陰に吹く風がなんとも爽やか。こうした景観を持続させるために政府や地方自治体はアグリツーリズモ(農村観光)などへの支援も積極的で、ワイナリーでの滞在などを通してこの土地の文化と歴史に触れるプログラムが人気を集めています。
オルチャ渓谷を一望できる街、ピエンツァ。人口わずか2,000人ほどの小さな街ですが、その歴史は古く、古代ローマ時代にはコルシニャーノと呼ばれていました。この地で誕生したピオ2世が1458年にローマ教皇に就任。故郷をルネサンスの理想郷にしようと、建築家のベルナルド・ロッセリーノに教会なども含めた都市計画を命じました。ピッコローミニ宮や、ピエンツァ大聖堂、ピオ2世広場などは、すべて当時の姿を残しています。ピオ2世は工事の完成を待たずして逝去してしまうのですが、美しい街並みは1996年に世界遺産に登録され、当時の雰囲気をいまに残しています。ピエンツァ大聖堂の裏手にある城壁の歩道から眺めるオルチャ渓谷は絶景。この土地の牧草を食べて育った羊のペコリーノチーズなども有名で、トスカーナの魅力が凝縮された街のひとつです。
ピエンツァから車で20分ほどの丘にあるサン・クイーリコ・ドルチャの分離集落「バーニョ・ヴィニョーニ」は、イタリア随一の温泉地。アンドレイ・タルコフスキー監督の映画「ノスタルジア」が撮影された場所としても知られています。ヤマザキマリによる漫画『テルマエ・ロマエ』さながらの浴場遺跡が残り、日本とはひと味違う温泉街の風情を楽しむことができます。古代エトルリア人によって発見されたとされるこの温泉は、ルネサンス時代にはメディチ家当主のロレンツォ・デ・メディチも療養に訪れたと言われ、のんびりとした雰囲気になんとも癒やされます。さっそく、リゾートホテル「Albergo Posta Marcucci(アルベルゴ・ポスタ・マルクッチ)」のSPAにビジターで入ってみました。スイムキャップや水着を着用するため、お風呂というよりも温泉のプールといった雰囲気で、家族連れやカップルで賑わっています。ガーデンにはデイベッドが置かれ、ロッカ・ドルチャの砦を眺めながら本を読んだり昼寝をしたりと気ままな時間を過ごしていました。初夏の陽気でも湯上がりの肌はさらりと心地良く、旅の合間にシエスタを堪能するのにおすすめです。
トスカーナを代表する産業のひとつがオリーブオイル。ピエンツァからオルチャ渓谷の丘を越えたトレクアンダ市のペトロイオという小さな村では、「Olio Bardi(バルディ)」というブランドが丹精を込めてエキストラバージンオリーブオイルを作っていました。初代のフランコ・バルディが縫製の仕事を引退した後、耕作放棄されたオリーブ畑を手に入れたのが2000年のこと。わずか600本のオリーブの木がいまではおよそ10,000本までになり、世界へ羽ばたくブランドへと成長しています。農園ではトスカーナ原産と言われるレッチーノやフルーティなフラントイオ、鮮やかな色合いのモライオロ、繊細な辛みが料理を引き立てるペンドリーノなどを中心に育て、その年のベストな割合でブレンドされています。味はなめらかな舌触りにオリーブの風味が強く香り、ポリフェノールの苦みや辛みをしっかり感じるトスカーナらしい味わい。ハーブやスパイスの様にサラダやパスタの仕上げにかけたり、肉料理やマメの煮込みなどにも相性が良さそうです。
現在バルディの代表を務めるのが3代目のアンドレアさん。現在27歳の若きリーダーは、伝統的なトスカーナらしいエキストラバージンオリーブオイルの味を守りつつ、年々増加するオーダーに応えるべく生産体制を刷新しています。
「エキストラバージンオリーブオイルはイタリア人にとって最も大切な調味料です。トスカーナにはトスカーナの土地でよく育つ品種があり、それが伝統料理などの味を支えてきました。南のほうではフレッシュで香りが強く、北のほうではまろやかなテイストが好まれます。中間のトスカーナはバランスが良く、どんな料理にも合うのが特徴です。バルディでは自家農園で育てたオリーブを手で摘み取り、その年の仕上がりを見ながら自社工場でオリーブを絞ってろ過していきます。わたしたちが大切にしているのは、この大地が育てた新鮮なオリーブをできるだけスムーズにオイルにして、素早くボトルに詰めること。味はもちろんですが、酸化させないことが味や香りにとって一番大切です。ですから、設備も常に最新のものを導入しながら最高品質の生産体制を心がけています。みなさんも、おいしいからといって勿体ながらず、フレッシュなうちに味と香りを楽しんでくださいね」
Bardiの向かいには、丁寧にブドウを育てるワイナリー「Albiano(アルビアーノ)」があります。およそ10ヘクタールの敷地のうち、ブドウが植えてあるのは4ヘクタールのみ。25,000本のブドウはすべて有機栽培で育てられ、基本的には手作業で収穫から選別まで行われています。サンジョベーゼ、メルロー、カベルネ・ソーヴィニヨン、プティ・ヴェルドが植えられ、この4種のブドウから生み出されるワインは全部で5種類。サンジョベーゼ100%の「TRÌBOLO(Orcia DOC)」はトスカーナらしい味を目指して熟成された個性をはっきり感じます。繊細なサンジョベーゼにメルローを40%加えた「CIRIÈ(Orcia DOC)」はテロワールを感じさせつつバランスのとれた一本で、フルーティな香りとふくよかなタンニンが特徴です。サンジョベーゼを唯一入れていない「ALBIANO(Toscana IGT)」は、インターナショナルなトレンドに合わせた意欲的な一本で、トスカーナらしさだけでなくアルビアーノの目指す味に仕上げました。それぞれの味に合わせてエチケットを手掛けるのはピエンツァのアーティスト、エンリコ・パオルッチ。キャンバスに浅く浮き彫りにしたレリーフのような作品が特徴で、「統制原産地呼称ワイン」であるDOCのボトルにはオルチャ渓谷の風景をイメージしたエチケットがデザインされています。
オーナーの一人であるアンナさんはフィレンツェ近郊の街に生まれ、ブドウやオリーブとたくさんの動物に囲まれて育ちました。学校では農業を学び、卒業後はアナウンサーなどさまざまな仕事を経験したといいます。
「ミラノで仕事をしていた頃に共同経営者のアルベルトと出会い、二人とも田舎でワインを作るのが夢だったので土地を探しました。ここは崩れかけの家が建っているだけでしたが、アミアータ山やピエンツァの街が見えるこの丘ではいいブドウが育つと直感したのです。土壌検査も問題なく、オルチャ渓谷特有の霧もこの場所まで届きません。ブドウの木はすべてわたしたちが手で植えました。同時にアルベルトはソムリエの資格を取り、私はマーケットや現場の勉強もしながら、愛情と情熱を注いだワインが誰かを笑顔にする日を夢見てきたのです。初めて仕込んだ2009年のワインをテイスティングしてみると納得できる味ではなく、瓶詰めで何かエラーを起こしたのだと思いすごくがっかりしました。しかし、アドバイザーから『数年待てば美味しくなる』と言われ、1年少し熟成させた2009年のワインはとても美味しくなっていたのです。ワインの奥深さと不思議さに触れた感動はいまでも忘れられません。アルビアーノのワインは手作りで生産量も少なく、熟成を必要とするためとても手間と時間を必要とします。ですから、テイスティングの機会は自慢のこどもをお披露目する至福の瞬間です。1本のワインに込められたストーリーを語りながら、グラスで香りがひらき、相応しい料理とともに大切な人と楽しむ。そんなワインをこれからも育てていきたいと思います」
オルチャ渓谷の街を散策していると、コンビニなどのチェーン店がほとんどないことに気づきます。景観条例などの影響もありますが、さりとてそれほど不便な印象は受けません。普段の暮らしに必要なものは昔ながらの街のお店で買い、たまに大きな街でまとめて買物をする。果物や野菜は近くで採れたものを食べ、余れば近隣で分け合いながら暮らしている。そんな暮らしは、とてもシンプルで豊かに感じます。バルディのアンドレアさんにしても、アルビアーノのアンナさんにしても、自分の仕事に誇りを持ち、情熱を注ぎながら日々の喜びを大切にしていることがよく伝わってきます。今でこそ美しい景色が広がるオルチャ渓谷ですが、もともとは耕作に向かない痩せた土地だったと知って驚きました。何百年もの歳月を重ねながら土壌を改良し、麦の種を蒔き、ブドウの木を植え、オリーブを育てる。トスカーナを象徴するこの景色に誰もがある種のノスタルジア(郷愁)を感じるのは、美しさよりも人々の連綿とした営みに深い感動を覚えるからなのかもしれません。