まもなく開業から100年を迎える温泉宿「金宇館(かなうかん)」。昭和初期に建築された宿屋を2020年に全面改修し、日本の伝統と近代の美点を併せ持つ上質な空間へとリニューアルしました。コンセプトは「時と泊まる」。これまでもこれからも変わらずにそこにあり続ける、大いなる心地良さと安心感に包まれる旅をご紹介します。
長野県松本駅から車で20分ほど、里山辺地区にある美ヶ原温泉郷。古くは日本書紀に「束間の湯(つかのまの湯)」として登場し、江戸時代には松本を治めた歴代城主の保養地として重宝された歴史を持ちます。標高約630m、雄大な山脈と松本市内を望む高台にあり、人里離れたのんびりとした雰囲気が魅力です。
「金宇館」がこの地に開業したのは昭和3年のこと。初代館主の金宇 儀道司(かなう ぎどうじ)さんが仲間とともに御母家(おぼけ)源泉を掘り当てたことに始まります。
「このあたりは古くから『おぼけ』と呼ばれていて、アイヌ語で自然に湯が湧き出る場所という意味の『オッポケ』に由来していると言われています。金宇家はもともと江戸時代から続く瓦屋でした。曽祖父の儀道司が屋根から転落し、病院で療養していた際にオッポケの話を思い出し、全財産を投じて『御母家源泉』を掘り当てました。当時のことを記録した書物には、かなり苦戦したことや掘削するポイントを易者に見てもらったという記録も残っています」と話すのは、儀道司さんのひ孫にあたり、4代目館主を務める金宇 正嗣(まさつぐ)さんです。
開湯を機に、掘削を行った仲間たちとそれぞれに温泉宿を開業。現在では金宇館のみとなりましたが、開業当初は3つの宿が軒を連ね、フロントには当時の様子を伝える写真が飾られています。時代とともに歩みを重ね、2028年には開業から100年を迎えます。
正嗣さんが代を継いだ時期とまもなく開業100年というタイミングが重なり、金宇館をもう100年残していくための改修が行われました。昭和初期に建てられた本館と旧別館の改修に加え、浴室棟を増設する大規模なプロジェクトで、2019年から約1年をかけ本館が完成、2024年には旧別館を一棟貸しの「離れ」としてリニューアルしました。本館、離れともに建築本来の構造を基調にしながら、断熱材と床暖房の完備をはじめ、耐震性、利便性、快適性といった、宿として続けていくためのインフラが整えられました。
「若い頃は古いとばかり思っていましたが、家業を継ぐという視点で改めて向き合ってみると、100年という月日によって醸し出される“空気感”こそが、当館らしさだと感じました。老朽化が進んでいましたので建て替えという選択肢もありましたが、壊してしまったらもう二度と建てることのできない建築です。もう100年、残していくことに決めました」と正嗣さんは改修への想いを振り返ります。
本館1階にはフロント兼ギャラリー、宿自慢の庭を望むラウンジ、心地良い日差しの入るダイニングが新設されました。外観の印象からはとても想像のつかない、モダンで洗練された空間がゲストを迎えます。2階と3階の客室エリアは、小さな客室を打ち抜き、ゆとりのある全5室へとリニューアル。オリジナルで新調したソファやベッドが空間にしっくりと馴染んでいます。
中庭を望む渡り廊下を進み、石階段を登った高台に建つ木造2階建ての「離れ」には、趣の異なる3つの寝室、暖炉のあるリビングダイニング、御母家の湯を湛える半露天風呂が備えられました。共有スペースとプライベート空間がしっかり分けられているので、友人同士や数家族での滞在にも使い勝手が良さそうです。
「曽祖父も、旧別館ではゆっくり滞在していただくようなコンセプトを描いていたようで、客室ごとに木材を変えるなど随所に情熱が注がれていました。その想いを汲み、今回のリニューアルではより特別な場所をめざしました」と話すように、本来の味わいに現代の感性が調和した、上質な空気感に整いました。
プロジェクトのパートナーに迎えたのは、安曇野市に事務所を構える北村建築設計事務所。古い建築の改修に造詣が深く、これまでも日本各地で旅館のリニューアルや民家再生などを手掛けています。
「北村さんとは以前から細かな改修でご一緒させていただいていました。今回のプロジェクトにあたってもたくさん会話を重ね、金宇館にとってどうするのが良いかを一緒に考えていただきました」と正嗣さん。
改修の一方で「復元」とも呼べる作業にも力が入れられました。90余年の間に行われた補修によって手が加えられた部分は、開業当時の技術や建材に倣ってオリジナルの設えに蘇りました。アルミサッシは木枠へ、天井や梁などもよく見ると古材と新しい木材が混在しています。
「古色塗と言って色付けで古木のように見せることもできたのですが、あえて白木をそのまま残すことにしました。経年変化によって、空間に馴染んでいく過程をお客様にも見守っていただけたらうれしいですね」
金宇館の原点である御母家の湯は、泉質はアルカリ性単純温泉、無色透明。肌あたりが良く、旅の疲れを芯から癒やしてくれます。新設された浴室棟は宮大工の手によって釘を使わず建てられた総ヒノキ造りで、昔ながらの湯小屋を思わせる風情が本館や離れの佇まいにも違和感なく溶け込んでいます。十和田石とヒノキを基調にした「光の湯」、松煙で色付けした左官による意匠が印象的な「影の湯」の2つの浴場はいずれも露天風呂。それぞれ山辺石を積み上げた庭を望み、見上げれば小屋組が美しく、浸かって良し、眺めて良しの贅沢な空間です。予約なく利用できる貸切風呂も完備。一見小ぢんまりとした内湯なのですが、窓を開放すれば半露天気分を味わえる造りです。いずれも翌朝10時まで入浴が可能で、出発の前までたっぷりと湯浴みを楽しめます。
夕刻が近づくにつれて、調理場からは出汁の香りが漂い始め、建物全体に湯気が満ちてゆきます。食事はすべて正嗣さんによる手作りで、松本をはじめ信州の生産者から届く旬の食材を日本料理のコース仕立てで頂きます。この日は安曇野本わさびをのせた柚子ごま豆腐から始まり、季節の八寸、粕仕立ての椀、馬刺しのお造り、白子と銀杏の蕪蒸しと続きました。素材そのものの味わいや旨みを生かした繊細な味わいは、日本酒、焼酎、ワインといった信州産のお酒とも相性抜群。お料理を運んできてくれる女将の枝津子(えつこ)さんとの会話も楽しい時間です。〆は安曇野のそば粉で打った自家製の二八蕎麦。食後の一杯を片手に暖炉の炎を眺めていると、すっかり夜が更けていました。
翌朝はお膳で頂く旅館らしい朝食。お櫃からよそわれた炊き立てのご飯や湯気の立ち昇る味噌汁が食欲をそそります。「お食事のひとときを私たちのおもてなしの気持ちを伝えることができる機会として、代々大切にしてきました。特別なものはありませんが、手間を惜しまず、一つひとつ心を込めてお作りしています」と正嗣さん。
お膳に並ぶ食器も明治時代の漆器を塗り直したもので、「もうあと2、30年もすると、こうした古い道具や建物はますます見かけなくなってしまうでしょう。古いものに光を当て、かけがえのない価値を残していくことが、どこか自分の役目のように感じているんです」と、守り続けていくことを選んだ正嗣さんの目は真っ直ぐに100年後を見据えていました。
出発の支度をしていると、上の階に人の気配を感じ、廊下が軋む音がしました。温もりのある懐かしい音にホッとすると同時に、100年後も誰かがこの音を聞いている姿を想像してうれしくなりました。ここにはいつもこの音があり、この空気感が残っている。目まぐるしい進化の中に暮らす私たちは、どこかで不変のものが持つ力強さに憧れ、その逞しさを求めているのかもしれません。滞在中は折に触れて「時」を考えることがあり、これまでを振り返り、今を楽しみ、未来を想像し、まさに“時と泊まる”、すてきな旅になりました。
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