San Quirico d’Orcia (サン・クイリコ・ドルチャ)にある由緒ある邸宅「Casa dell'Abate Naldi(カサ・デッラバテ・ナルディ)」。Lorenza(ロレンツァ)さんの夫の一族が代々にわたって守り伝えてきたこの町の歴史そのもので、邸宅の内部や中庭は一見の価値があります。また、観光客から好評なアクティビティのひとつに「ロレンツァさんの料理教室」があります。邸宅内のキッチンで手ほどきを受けるトスカーナの伝統料理は、その土地の歴史や風土を実感するのに最適です。レッスン後は作った料理を囲んでワインを片手に楽しいひとときを過ごします。
ローマへ通ずる巡礼路である旧フランチェジーナ街道沿いの街には、イタリアの歴史においても貴重な建築が建ち並びます。「San Quirico d'Orcia(サン・クイリコ・ドルチャ)」もそのひとつで、この町はかつてローマ教皇ファビオ・キージの領地であり、その甥はメディチ家のコジモ3世によってサン・クイリコ・ドルチャ侯爵に任命されました。町の中央にあるイタリア式庭園の「Horti Leonini(オルティ・レオーニーニ)」は、ルネッサンス様式の造園技法を取り入れたもの。幾何学模様に刈り込まれた庭園の中央には、コジモ3世の像が建てられています。12世紀末に建てられた教会は、13世紀になると入り口が改修され、16世紀には内部が一部改築されました。その結果、建築当初のロマネスク様式にゴシック様式とバロック様式が混ざり、ひとつの教会にイタリアの主要な建築史が凝縮されています。また、クラシックカーの愛好家には伝統的なレース「ミッレミリア」のコースとしても知られ、美しい丘陵地帯を颯爽と駆け抜ける姿はイタリアのグランツーリスモを象徴する光景です。
「Casa dell'Abate Naldi(カサ・デッラバテ・ナルディ)」は、この町の歴史を見守ってきた邸宅です。ナルディ邸は、1650年にキージ教皇の専属医師であるマッテオ・ナルディのために建てられました。室内は建設当時の内装を多く残しており、床もオリジナルのままコンディションを保っています。数多くの部屋とサロンや2つの庭を持ち、現在はLorenza Santo Cipolla(ロレンツァ・サント・チポラ)さん一家が暮らしています。1階の中庭は中世の城壁内に作られた菜園システムの一部で、有事の際に地域住民が困ることのないように備えられたもの。2階の空中庭園は3つのゾーンで建物をブリッジし、メインの応接室からから眺めることができるように設計されています。ダンテ通りに面したメインのドローイングルームでは室内楽のコンサートが開催され、取材時にも音楽家たちが滞在していました。「この家は音楽がよく似合う」と、ロレンツァさんは話します。
ロレンツァさんはもともと料理が好きで、自分たちで経営する農園のB&B(アグリツーリズモ:農園ホテル)で料理を振る舞っていました。たまにゲストと一緒に料理を作りながらトスカーナの伝統料理を教えていたところそれが評判となり、2013年から自宅で料理教室を始めたのです。
「この家は私の夫の祖先が受け継いだものです。300年以上の歴史を持つ家具や洋服がたくさんあり、家族の思い出だけでなくイタリアの民族史においても貴重なものでしょう。以前はこの場所でレストランをやっていたこともありましたが、現在はこの家をツーリストに紹介するツアーや料理教室などのプログラムをやっています。あとはときどき音楽家や学生たちに部屋を提供して、コンサートを開催するんです。メインサロンは音楽を演奏するのに相応しいでしょう? なにせ家の窓を全部開けるだけでも大仕事なほど広いので、人がたくさん集まると家に生気がみなぎるようで楽しい気持ちになります。さぁ、今日はトスカーナ伝統のパスタ料理の『ピチ アル アリオーネ(Pici all’aglione:ピチのアリオーネパスタ)』と、Vin Santoに浸して食べることの多いビスコッティ『カントゥッチ(Cantucci alle mandorle:アーモンド風味の固い焼き菓子)』を作りましょう」
「Pici(ピチ)」は日本ではあまり馴染みがありませんが、トスカーナ地方では古くから伝わる手打ちパスタです。「このパスタは人々がまだ貧しく、卵すら手に入らなかった頃の暮らしの知恵から生まれたものです。当時を思い出すのか夫はあまり好まなかったわ(笑)」と、ロレンツォさんは笑います。中力粉とわずかな塩だけで作る麺はまるでうどんのようなモチモチとした食感で、シンプルながら素朴な味わいと食べ応えが魅力です。
「ピチは片方の手で生地を引っ張り軽くテンションを掛けながら、もう一方の手で縒っていくのよ。機械を一切使わず、このバランスで麺の太さとコシが決まるの。あまり均一ではない方がソースとよく絡んでおいしいわ。慣れてくるとお喋りしながらでも長く一本のパスタにすることができるの。昔は近所のお母さんたちが集まって一緒にピチ作りをしたものよ。合わせるソースはラグーやボロネーゼのようなお肉を使った豪華なソースは伝統的とはいえません。トマトベースのシンプルなアリオーネのソースがピチにはよく合うの。ただ、できれば本物のアリオーネを使いたいところね。ニンニクとよく似ているけれど、大きくて香りも上品になるわ。こうした機械を使う以前の“Poor Pasta”はどの地方でも伝統的なレシピがあり、プーリア地方のオレキエッテやリグーリア地方のトロフィエなどが有名ね。豊かではない時代から、みんなこうして手作りで食事を用意していたのよ」
続いて作るのはビスコッティの元祖と言われている「Cantucci(カントゥッチ)」です。オーブンで二度(ビス)焼く(コッティ)ことで水分が抜けて堅くなり、長期保存ができるようになります。しかし、一度焼いたときに味見した香ばしい香りとしっとりとした食感もすばらしく、これは手作りでしか味わえない魅力です。
「トスカーナの伝統的なお菓子で、アーモンドの入ったザクザクとした歯ごたえが特徴的でしょ。この堅さは違う温度で二度焼き上げ、生地の水分をしっかり抜くことで生まれるの。ポイントは、最初のオーブンで熱くしすぎないこと。しっかりと中まで火を通して水分を抜き、堅く焼き上げることで長く保存できるようになるのよ。一度焼いたときのしっとりした味わいも魅力だけど、保存のためにはこうすることがとても大事だったの。だから、レシピの分量を気にすることも大切だけど、自分がどういう目的で何をしているのか、しっかり理解しながら料理をすることの方が大切よ。このカントゥッチも上品な甘さと香ばしい香りはおやつにぴったりだけど、トスカーナではこれをヴィン・サントと呼ばれる甘口ワインに浸して食べ、食後のデザートにするの。エスプレッソやカプチーノに浸しても良いけれど、ヴィン・サントと一緒に食べるととても満たされた気持ちになるわ」
ロレンツォさんの料理教室で使われていた小麦粉や野菜の多くは、娘のルイーザさんに受け継がれたアグリツーリズモ「il rigo(イルリーゴ)」のもの。大切に育てられた有機野菜はホテルやレストランでも使われ、オルチャ渓谷の風土をゲストに伝えています。フロントを兼ねる本館のファームハウス「Casabianca(カサビアンカ)」は16世紀に、1kmほど離れた場所にあるゲストハウス「Poggio Bacoca(ポッジョ・バコカ)」は1920年代に建てられたもの。どの部屋からもオルチャ渓谷の絶景が一望できます。この絵画のような風景を舞台にしたウェディングパーティーも人気で、人生の節目に各国からゲストが訪れます。小さな果樹園で手摘みした果物を使用したジャム、古代穀物を石臼で挽いたシリアルなど、朝食からディナーまでこの土地で採れたものばかり。ロレンツォさんは「その昔、ここには何も植えられていなかったのよ。わたしたちが畑を耕し、植物や花を植えて育ててきたの。この暮らしに誇りを持っているからこそ、街の自宅もこの農園も未来に残していきたいの」と、話します。
イタリアでは25,000件以上のアグリツーリズモが存在し、近年はその形態も多様化しながら増加しています。その背景には、1985年に制定された「アグリツーリズム法」によるところも大きく、農業収入だけでなく宿泊や食事、農作物の販売やイベントなどのアクティビティが地域特有の体験を求めるツーリストから注目されるようになりました。トスカーナ地方にはアグリツーリズモの約2割が集中しており、風土の豊かさだけでなく長年にわたる生産者の努力を感じることができます。その中心地であるオルチャ渓谷も世界遺産に認定されているわけですが、自然遺産ではなく「文化遺産」であることがよく理解できる体験となりました。その土地で育った食材を使い、伝統や歴史に思いを馳せながら一緒に料理を作る。テーブルを囲みながらロレンツォさんのお話をうかがっていると、シンプルで豊かなライフスタイルの一端に触れた思いがします。美しい景色とおいしい料理は旅の醍醐味ですが、その土地に暮らす人々と触れあうことで風土に対する敬意が深まる新しいツーリズムの可能性を感じました。ぜひローマやフィレンツェに訪れた際には、オルチャ渓谷まで足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。
via Dante, 24 | S. Quirico d’Orcia (SI)
https://abatenaldi.com/en/welcome/