旅の景色を心で想う
くろしお想
旅の景色を心で想う
くろしお想

和歌山県のリゾートであり、温泉郷でもある白浜町に誕生した「くろしお想」。料理旅館だった建物をリニューアルした小さな湯宿は、『徒然草』に美と癒やしの本質を求めました。人生の余白を愉しむような上質な時間は、随所に散りばめられた日本人の「美意識」によるものかもしれません。和歌山の伝統工芸や地産地消にこだわり、地域の魅力を取り込んだ体験型の滞在は、南紀白浜の新たな一面や魅力を感じることができそうです。

万葉の時代から人を癒やした場所

兵庫県の有馬温泉、愛媛県の道後温泉と並ぶ日本三古湯のひとつが和歌山県の白浜温泉です。その歴史は古く、飛鳥時代から「牟婁(むろ)の温湯」として知られ、皇族をはじめとする宮人を癒やしてきた場所でもあります。複雑な海岸線は瀬戸内海と太平洋に接し、熊野水軍が洞窟に船を隠したとされる「三段壁(さんだんべき)」や荒波が生み出した岩盤風景「千畳敷(せんじょうじき)」、白浜のシンボル「円月島(えんげつとう、正式名称/高嶋)」など、地球の営みを残した大自然は「南紀熊野ジオパーク」にも認定されています。黒潮が育んだ海の幸、江戸時代から農耕で鍛えられてきた熊野牛、のびのび育った紀州鴨など食の魅力も多彩で、一年を通して温暖な気候は心地良く心と体をほぐしてくれます。

旅に求められる豊かさとはなにか

山々が連なる紀伊山地のなかでも南側の白浜エリアは海と山の距離が近く、自然の恵みが豊かです。この風光明媚な岬を見渡す丘の上に誕生した宿が「くろしお想」。宿を運営する株式会社フリーゲート白浜の代表取締役を務める井上 真央(いのうえ まなか)さんにお話をうかがいました。

「この会社はアパレル業を営む株式会社パルの特例子会社として、くろしお想のほかに複合施設『ASA VILLAGE』や農業と福祉をつなぐ自社農園『スマイルファーム』を運営しています。私は東京で経営戦略のコンサルタントとして働いていましたが、創業家の一員としてライフスタイル事業を展開するため、2021年に入社しました。この場所はもともと料理宿だったのですが、コロナ禍にあってウェルネスツーリズムや新しい豊かさが求められるなか、リニューアルが決まりました。コンセプトを策定するにあたって、地域のエッセンスを学ぶべくさまざまな生産者や職人の元を訪ねました。それは、この土地の風土に触れ、自分たちの伝えるべきことが明確になるプロセスでした。あるとき海外での学生生活で親しんだ『徒然草』を手にしたとき、第137段の“満開の花や満月ではない月にこそ情緒を感じる”という表現に心を打たれたのです。そこには、目の前に現れる事象だけでなく、心で情景を想う豊かさが表現されていました。そこで、あちこちから豪華なものを集めてくるような表層的な贅沢ではなく、目の前にある豊かさに気付いていただけるような旅行体験をお届けしたいと考え、“くろしお想”と名付けました」

余白に満たされた眺望と空間

館内は11室の客室とロビー、ライブラリー、ダイニング「縁月」、大浴場などくつろぎに必要な要素がミニマルに構成されています。随所に散りばめられた和歌山の伝統工芸が、控えめに、それでいて饒舌にこの土地の魅力を語っています。1階の客室には白浜産の“い草”による畳が敷かれ、ダイニングには紀州の建材「あかね材」が用いられています。「大谷石や“しらす壁”と呼ばれる土壁など、この土地が培ってきたセンスが詰まっている」と話すのは、支配人の藤井 一泰(ふじい かずひろ)さん。

「もともと宿泊施設ということもあり、すばらしい眺望を活かしたリノベーションが行われました。建材や食材なども地元のものだから使うというよりは、ゲストをもてなすのに相応しいものという視点で集めています。すべての部屋には『徒然草』に出てくる言葉を用いていて、その言葉から着想を得た図案をキーホルダーにデザインしています。ロゴも“想”の字に含まれる“木”と“目”と“心”をモチーフにするなど、南紀白浜というエリアだけでなく我々日本人が持つ美意識を再発見してもらえるような宿を目指しました。エシカルな発想や地域とともに発展していく姿勢など、新しい“当たり前”を自然と体現できていることも心地良さに繋がっていると思います。各お部屋には地元の書店“ivory books”の選書が3冊置いてあるのですが、時間や空間をなにかで埋めるだけでなく、余白や何もしない時間を愉しんでいただけたらうれしいです」

湯に浸かり、静けさを愉しむ

湯宿の魅力である石造りの大浴場は源泉掛け流しの温泉で、日によって色が白く濁ったり透明に澄んだりと変化します。日本書紀には飛鳥時代の皇族である有間皇子(ありまのみこ)が白浜温泉を訪れたと記述されており、その後も文武天皇などの皇族や貴族が湯治に訪れました。この宿には大浴場のほかに、温泉を堪能できる空間が二つあります。ひとつは大浴場の脇に設えられた「貸切風呂」。ヒノキの湯船とリクライニングチェアが用意され、予約すれば誰にも気兼ねすることなくじっくりと湯に浸かることができます。もうひとつが「葉の上に燦めき」といったコーナージュニアスイートタイプの客室。部屋に信楽焼の湯船が備えられ、いつでも湯浴みを愉しむことができます。湯船にそっと体を沈め、自分の呼吸に意識を向けて静寂に身を預けると、お風呂という小さな空間がどこまでも広がるような不思議な感覚に包まれます。身体が温まるだけでなく、心まで満たされる温もりが印象的です。

一流が共演するダイニング

そして、この土地の魅力を五感で愉しむことができるのがダイニング「縁月(えんげつ)」で頂く料理。料理の監修を手掛けるのはミシュラン一つ星を獲得した「てのしま」の林 亮平(はやし りょうへい)さん。産地の旬と素朴な郷土料理に本質を見出す東京・南青山の日本料理店です。そして、現場で腕を奮うのが「パレスホテル東京」の開業以来、日本料理「和田倉」で料理長を務めてきた宮部 敬二(みやべ けいじ)さん。一流の料理人たちが共演するダイニングです。

「熊本で生まれ育ち、京都で修行していた26歳の時に結婚しました。その後、30歳で妻の実家である和歌山に家を建てました。日本料理一筋で、全国のいろんな場所へ行ってお客様をもてなしてきましたが、料理人としての最後はこの白浜が良いと思って、伝を頼って紹介してもらったのがくろしお想だったのです。『てのしま』の林さんに監修していただく話は決まっていたのですが、まだ料理長が決まっていないとのことで、お世話になることにしました。林さんからレシピと献立が届き、私が調理するというスタイルです。2泊目までは献立を考えていただいているのですが、先日は4泊されたお客様がいらして、そのような場合は私がメニューを任せてもらっています。林さんはともかく食材に対してアグレッシブで、近隣の生産者の方をくまなく巡っておられるようでした。新しい食材の活用方法やコースへの取り入れ方は勉強になります。一方で、現場を預けてもらっている以上、私も信頼に応えるべく毎日届く食材と向き合いながら腕を奮っています。試食会などを通じてお互いに目指す味がわかっているので、ともにお客様に喜んでいただけるひと品を目指している感覚です。料理人としての人生のなかで、とても良い時間を過ごさせてもらっています」

風土の旬を切り取る食体験

ペアリングで頂いたコース料理は、日本料理の伝統と和歌山の郷土料理をモダンに解釈した内容で、じっくりと噛み締めたくなる滋味溢れるものでした。

ひと皿目の柚子釜豆腐は、紀州鴨のそぼろに餡をからめた温かいスープのようなひと品。柚子をまるごとくり抜いたインパクトのある見た目とは裏腹に、自家製豆腐の甘みが優しく胃を温めます。雪降る松に見立てた前菜の盛り合わせはそれぞれ素材の塩気や苦みがほどよく、平和酒造のホワイトエールとよく合います。お造りは近海のヒラメで、煎酒(いりざけ)という醤油よりも歴史が古い、ウメの酸味が効いた調味料で頂きます。旨味の強い魚には、芳醇ですっきりとした龍神丸の純米吟醸生原酒を合わせて。

メインは伊勢海老を使った贅沢なエビカツ。添えられたレタスは地元の白浜農家によるもの。実は日本で初めてレタスが育てられたのが和歌山県だと教えてもらいました。甘みが特徴の熊野牛は、和歌山県が発祥とされる金山寺味噌が肉の旨味を引き立てます。締めに頂く牡蠣の炊き込みご飯には隠し味にウイスキーが振り掛けられており、生姜のアクセントと相まって最後まで口福を堪能しました。ペアリングは一杯ごとの量を抑えながらひと品ずつ合わせられ、日本酒からクラフトジンまで巧に料理の魅力を引き出していました。

地域の息づかいに触れる

くろしお想では、メニューを挟んだカバーにすべての生産者や酒造メーカーの名が記され、周辺マップにもエリアごとの見所やおすすめスポットが細かく紹介されています。「桟橋の近くにカカオ豆からチョコレートを作っているお店があるので行ってみませんか」と、藤井さんに誘われて向かったのは「K型 chocolate company Factory&Cafe」。オーナーの島 彰吾(しま しょうご)さんは、広島・尾道の「USHIO CHOCOLATL」で修業した後、和歌山の玄関口である白浜に工場とカフェをオープンします。「コーヒーもワインも飲めない自分が唯一、産地や品種など素材の違いと魅力を楽しめた」と、ガーナやタンザニア、ボリビアなどからカカオ豆を輸入し、それぞれの個性が味わえるチョコレートを作っています。藤井さんは「弊社で運営しているASA VILLAGEも同世代が集まってくることで宿泊施設やCAFE、コワーキングスペースなど複合施設へと変化していきました。島さんも同世代ですが、みんなでこのエリアの魅力を増やしていけたら良いですね」と、今後のビジョンについて話してくれました。

景色とは、心で想うもの

翌朝の朝食は、ほっこりと味わい深い“日本の朝食”そのものでした。爽やかな景色を眺めながら、噛み締めた梅干しに目が覚めます。食後は近隣を散歩しながら、白良浜(しららはま)まで足を伸ばします。オーストラリアから運んできたという真っ白な砂浜を歩いていると、癒やされた体にゆっくりと活力が戻ってくるのを感じました。部屋に戻って『徒然草』を読み直してみると、いまの私たちの暮らしは少し忙しすぎるのかもしれないと思い至ります。日常がさまざまな出来事に溢れていて、日々のささやかな変化に気付いたり、じっくりと物事に向き合うことがなかなか難しい毎日。マインドフルネスや瞑想などが注目されるのは、知らずに心も体も疲れてしまう暮らしの揺り戻しなのかもしれません。そんなときは、止まり木のような宿で少しのんびりしてはいかがでしょうか。ゆっくりとお湯に浸かり、おいしいものを頂いたひとときは、宿を離れてこそ一層愛しく想うものでした。

くろしお想

〒694-2211 和歌山県西牟婁郡白浜町1155
Tel. 0739-42-3555

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