心と体を整える宿
旅籠 八…
心と体を整える宿
旅籠 八…

重要文化的景観に選定されている滋賀県近江八幡市の「八幡堀」。「旅籠 八…(わかつ)」は、八幡堀沿いに佇む江戸後期の数寄屋建築をリノベーションした料理宿です。歴史と趣のある雰囲気を堪能できるプライベートな空間には、好奇心を刺激する仕掛けがちりばめられていました。豊かな土地の恵みを頂く料理やユニークなサウナ「醸し風呂」など、周辺領域における「心」をテーマに据えたコンセプトが旅情を掻き立てます。

湖東に残る歴史の香り

近江商人発祥の地として知られる滋賀県近江八幡市。現在の街並みの起源は、1585年に豊臣秀吉の甥にあたる秀次が八幡山城を築城し、城下町を興したことに始まります。織田信長の最後の居城である安土城周辺から商人や職人を呼び寄せ、水運による物流や生活用水のインフラとして八幡堀(はちまんぼり)を整備しました。八幡山城の廃城後もこの地の利を活かした近江商人によって町は発展し、その名残は商家町として往時の隆盛をいまに伝えます。地名の由来ともなっている「日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)」は現在でも“八幡さま”として親しまれ、毎年4月14日(宵宮祭)と15日(本祭)には「八幡祭」が開催されています。1000年以上にわたって続くこのお祭りの本祭は別名“太鼓祭”とも呼ばれており、大太鼓が宮入りする様子は圧巻です。境内の奥からは八幡山の山頂まで八幡山ロープウェーが伸び、頂上からは肥沃な大地と穏やかな琵琶湖の姿を一望することができます。

旅の舞台は築200年の古民家

「旅籠 八…」は、八幡堀沿いに建つ「旧喜多邸」を宿泊施設にリノベーションした料理旅館。1829(文政12年)に畳屋として建てられた建物は、母屋と蔵、離れの3つの建物から構成されています。エントランスは八幡堀側に設けられ、しめ縄をくぐると室町時代の木彫りの狛犬が出迎えてくれました。ひとたび敷地に足を踏み入れると雑踏から隔絶された静謐な空気に満たされます。母屋には昼はカフェ、夜はバーとしてゲストをもてなす「氵(さんずい)」があり、滞在のプロローグとして一服のお茶を頂きました。お堀から続く水にちなんだもてなしに背筋が伸び、寛ぎと清々しい気持ちに包まれます。

「八」に込めた旅への想い

お茶を頂きながら、主人の吉田 尚之(よしだ ひさゆき)さんにお話をうかがいました。

「実家は京都で着物の仕事しており、私も出身は京都になります。もともとウエディング業界で働いていて、その後ウエディングを中心としたサービス業を手掛ける企業として独立しました。この宿もそのひとつです。結婚式や披露宴などの人生の節目を飾るイベントは、どんなにすばらしい体験を作り上げてもリピートしていただくことはできません。新型コロナウイルスによるパンデミックもあり、旅や体験への本質的な欲求を求めて辿り着いたのが宿泊業でした。私にとって旅とは瞑想のような体験で、なにかの結果を求めて行うのではなく、旅から得る体験そのものに意味や価値を見出せると考えています。違う環境に身を置くことでなにを感じ、どんな変化があったのか。その仕掛けをご用意できる装置のひとつが宿なのです。例えば、夕食では最初にお水だけ、お米だけで味わっていただきます。味や温度、香りや食感など、わずかな時間でも集中して向き合ってみるとさまざまな気付きを得ることができます。日常では当たり前のことが、旅という非日常のフィルターを通すことで当たり前ではないことに気付く。八は、そんな“素朴の中の贅沢”を提案する宿でありたいと思っています」

日本の風情を閉じ込めた客室

客室は離れの「木の間」と、母屋の特別室「石の間」の二部屋のみ。八幡堀に面した離れの「木の間」は、京都の数寄屋大工の手によって改修されたオーセンティックな和の空間。四季の風情に満ちた一室になっています。一方、「石の間」は江戸時代の梁や瓦を内装に活かすことで、重厚な雰囲気をモダンにあしらった空間です。全体的に日本の伝統意匠を基調としながらも、随所にメソポタミアの陶器や縄文時代の土器とともに稲や藁などが飾られ、自然崇拝にも通ずるプリミティブな魅力に満ちています。それでいて、寝室や浴室の設備は現代的なものが用意されていて、滞在は快適そのもの。アイコニックな岩風呂は巨大な京都鞍馬石をくり抜いたもので、お湯に浸かると包み込まれるような心地よさ。鈴鹿山脈でゆっくりと磨かれた天然水が、体を清めてくれます。どちらの客室からも中庭を望み、季節や陽の移ろいによって風情を感じる空間です。

心まで整う「別邸 九.」

敷地内の土蔵を改装した「別邸 九.」は、「醸し風呂」を体感できる施設です。一般的なサウナと違うのは、内面と向き合うことによる変化を発酵に見立てているところ。二階建ての室内はしっとりと暗く、穴蔵に入ったような独特の居心地です。暗いところや狭いところが苦手な場合は、照明を明かるくすることもできる柔軟性はうれしいところ。通常の流れとしては、まずは光が閉ざされた小さな空間で、平安初期に掘られた阿弥陀さまの前に座り、自分の心と向き合います。瞑想によって五感を研ぎ澄ましたら、次は藁が敷き詰められたサウナ室で新鮮なハーブや薬草の香りに包まれます。低温でじっくりと温めた体を井戸水で冷やし、また温める。体だけでなく、心まで整う体験です。

ひとくちの水から始まる食事

夕食は蔵を改装したメインダイニング「溜ル(たまる)」で頂きます。最初のひと皿は、一杯の水。中川木工芸の「YORISHIRO」で頂く天然水が胃に染み渡ります。次いで頂くのは、ややアルデンテに仕上げた炊きたてのお米。琵琶湖最北端にある西浅井町の若者たちが作った「丸子米」というコシヒカリで、お米の甘い香りやしっとりとした舌触りに「お米って、こんなに複雑な味わいだったのか」と気付かされます。走りの筍や京都では「グジ」と呼ばれる甘鯛の茶碗蒸し、春の魅力を詰め込んだ八寸など、いずれも素材の魅力を巧みに引き出した逸品です。

特筆すべきは三重産の鰆(さわら)。備長炭で皮目を炙る音が静かな厨房に響きます。一本釣りで丁寧に下処理されたものを4日ほど寝かせて水分を抜くことで、脂と身の旨味がギュッと凝縮されます。ハマグリの網焼き、近江牛の藁焼きやしゃぶしゃぶと、かなりのボリュームを食べたはずが、不思議と胃に余裕を感じます。

元気になって出発してほしい

翌朝に目を覚ますと、久しぶりに朝から空腹感を覚えました。料理長の西澤 剛(にしざわ つよし)さんによれば、「調味料で味を足すのではなく、素材本来の味が引き立つように仕事をすると、味わい深くて食べ疲れしない食事になる」とのこと。朝食を楽しみに母屋の二階へ上がると、茶室のような「紙の間」に削り立ての鰹節が香ります。まずはそのまま囓るとわずかな塩みと鰹の旨味が広がります。次いで75℃のお湯で風味とともに味わい、最後は少しお醤油を垂らして頂きます。釜で炊いたお米には、ビワマスの幽庵焼きをメインにこの土地の伝統的なおかずが並びます。朝から3杯もご飯をおかわりしたのはいつ振りのことでしょうか。“元気になって次の出発地へ向かう”という、旅宿の本質に触れた思いがします。

分かち合い、紡がれていく

京都と北陸を繋ぐ要衝であり、伊吹山と鈴鹿山脈によって東海エリアと関西エリアを分ける分水嶺でもある近江八幡。京都出身の吉田さんは「この町には自然と文化がのびのびと共存している独特の心地よさがある」と話します。自然の恵みとこの地の利を活かし、地場の産業を興して各地と交易する。この「諸国産物廻し」という商法の本質は、豊かさをシェアする「三方よし」という近江商人の商売哲学にも繋がります。独占ではなく分かち合うことで発展してきたこの町の歴史は、そのまま「ゲストと町、ときにはゲスト同士が同じ時間を分かち合い、体験や価値観をシェアしていく宿でありたい」という「旅籠 八…」のコンセプトに通じます。テレビやBGMが一切ない空間で自分と向き合い、「素朴の中の贅沢」を誰かと分かち合う。大切な人とそんなひとときを過ごすのにぴったりの宿でした。

旅籠 八…

〒523-0831 滋賀県近江八幡市玉屋町6
Tel:0748-36-2745

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